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東本願寺は京都市下京区にある真宗大谷派の寺院です。東本願寺は通称で正式な名称は「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」ですが、京都に住んでいる人たちには「お東さん」や「お東」という愛称で呼ばれ、西本願寺と同様に大変親しまれている寺院です。
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※使用写真は堀出撮影のものではございません。
東本願寺の概要
東本願寺と西本願寺はもともとは一つの寺院でした。東本願寺と西本願寺が分裂してしまったきっかけは、1570年(元亀元年)から10年もの間続いた浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦い、いわゆる石山合戦から始まります。
1467年(応仁元年)に応仁の乱が京都を中心に11年間続いた後、100年にわたり一向一揆が頻繁に起こるようになりました。
その前からも一揆はたまに見かけられることもありましたが、浄土真宗本願寺派で中興の祖と言われている蓮如(れんにょ)が第8世宗主になったことにより、力はさらに強くなり、戦いもさらに激化し、その相手は領主や守護大名にまで広がりました。(浄土真宗本願寺は一向宗とも呼ばれていた)
つぎに第10世宗主証如(しょうにょ)は、蓮如が建立した石山道場(現在の大阪城本丸付近)を本山として、領地を拡大、防御を固めて、本願寺は最盛期を迎えます。やがて、戦国時代最大の宗教的武装勢力になっていきました。
そして、その頃、天下布武を成し遂げるために京都に入った織田信長が、次第に本願寺勢力と対立、信長は本願寺打倒のために立ち上がり、本願寺の第11世宗主となった顕如(けんにょ)も寺の存亡をかけて信長と戦います。これが石山合戦です。
10年にも渡る激しい戦いの末、信長は和議を求めてくるのですが、この時に和議を受け入れるか受け入れないかで、本願寺の中で意見が分かれてしまいました。
顕如と次男の准如(じゅんにょ)は信長の和議を受け入れようとしましたが、長男の教如(きょうにょ)はそれを受け入れようとはせず、和議が整った後、顕如は和歌山の鷺森に退去したのに対して、教如は石山に立て篭り抗い続けます。
その後、豊臣秀吉の時代となって顕如は秀吉から七条堀川の土地を寄進され、そこに御影堂と阿弥陀堂を建立しました。そこが現在の西本願寺です。
信長の死後、親兄弟から絶縁状態にあった教如も、許されて本願寺に戻り寺を継承することになるのですが、再び本願寺内で対立、秀吉の後押しもあって弟の准如が第12宗主になりましたが、それでも教如は本願寺の中ではまだまだ力を持ちつづけていました。
そして、次の権力者、徳川家康に徐々に近づき、1602年(慶長7年)に家康より寺地の寄進を受けて七条烏丸に東本願寺を建立しました。
これが真宗大谷派の起こりで、西本願寺と東本願寺は現代のように分かれることとなりました。
この分断は徳川家康が浄土真宗本願寺が以前のような力を持たないように勢力を分断させる意図もあったと言われています。
東本願寺のおすすめ写真スポット
東本願寺のおすすめ写真スポットは世界最大級の木造建築と言われる「御影堂」です。東本願寺は江戸時代の間に4度もの大火にあい「火出し本願寺」などと揶揄されるほどだったそうです。
なので「御影堂」は幕末、禁門の変に伴って起こった通称「どんどん焼け」といわれる大火で焼失の後、明治時代になってから再建されました。
総工費は約98億円、15年もの歳月をかけて作られたそうです。その壮大さ、荘厳さは、必見ですよ。
東本願寺の交通アクセス・拝観案内
住所 | 京都府京都市下京区常葉町754 |
拝観案内 | 3月〜10月は5:50から17:30、11月〜2月は6:20から16:30 |
料金 | 無料 |
交通アクセス | 京都駅から徒歩で約7分 |
その他のおすすめ写真スポットが知りたい場合は「京都の写真スポット検索」をご確認ください。
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